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ときどき英語 / ときどき日本語 / 日記

遺ったもの

父が遺したデジタルカメラのデータを取り出すことに成功した。


ズボンのポケットに入っていたというFuji FinePix Z-1(私たち夫婦が以前使っていたものをゆずったものだった)を、紀州造林の事務所で警察の方から受け取ったときは、液晶画面に水と砂がひどく入り込み、カードスロットにまでも細かい砂粒が浸入していた。もし撮影データがカードに残っていたとしても、この状態では取り出すことは難しいだろうと思った。XDカードをスロットから抜き取り、盛岡に残った母に本体を託して、カードのみを携えて東京に戻った。


東京にもどり、リーダーにカードを差し込むと、なんと、あっさりとデータを吸い出してくれた。残っていた写真は全部で約20枚。iPhotoのライブラリ画面に並んだ写真を見て、よくぞ残っててくれた!と、声をかけたくなった。さっそくプリントを依頼し、出来上がりを母に送った。


そこには、四回に分けて撮影されたデータが残っていた。


撮影日: 2010年11月27日
撮影枚数: 3枚
内容: 陳舜臣「果たされなかった約束」というタイトルがついたページをそのまま撮ったもの。調べたところ、2006年2月に発売された文藝春秋臨時増刊号「没後十年 特別企画 司馬遼太郎ふたたび 日本人を考える旅へ」に収録された文章であることがわかった。コピーやスキャンではなく、なぜページを写真に撮ったのか、今となっては詳細はわからない。どんな内容なのか、読んで確かめようと思い、bk1で発注したところ、三週間待たされたあげく、「入手困難」という連絡が。これはだめかと思いながらも、啓文堂に依頼すると、2〜3日で「入荷」の連絡。早速その小さな文章を読んでみた。


それは、対談の「約束」をしていたにも関わらず、その直前に帰らぬ人となった司馬との交流を綴った見開き二ページの文章だった。わたしのような立場の人間特有の勝手な思い込みかもしれないが、そこには今回の震災とのうっすらとしたつながりの気配が感じ取れる。冒頭、筆者は司馬遼太郎と最後に顔をあわせた日のことを思い出す。最後にふたりが会ったのは「平成七年」、つまり阪神淡路大震災の年だった、と記述する。さらに、脳内出血で倒れ療養中の筆者に対して送られた司馬からの見舞いの手紙の日付が「九月一日」とあり、その日は関東大震災の日だ、という記述も出てくる。また、ふたりの対談のテーマとして登場する春秋時代について言及する部分には、以下のような記述がある。淡い符合をはらんだ文章をなぜ父はカメラにおさめたのだろうか。

どんな弱国でも勝つ方法があった。防(黄河の堤防)を切れば、相手国は水びたしになる。しかし相手も報復にこちらの防を切るかもしれない。まさにこれは現代の「核」であり、春秋の諸侯が最後までそれを守ったのは現代への教訓であろう。


撮影日: 2010年11月28日
枚数: 6枚
内容: 三陸町にある大王杉の写真や、本丸城の由来を記した看板の写真。大船渡まで見に行ったということか。三陸町も今回の津波の被害を被ったが、この大王杉は倒れずに残ったという。(参考記事: 伝統芸能や信仰、被災地支える「絆を確かめたい」朝日新聞, 3/28/2011)


撮影日: 2010年12月5日
枚数: 2枚
内容: 片岸の実家の玄関前で母が着物を着て立っている写真。ほんの少し笑顔が見える。母はお茶や着付けをやっているので、もしかしたらそうした集まりに出かける前に撮った写真かもしれない。今度母に会ったら、何のときの写真だったのかを聞いてみようと思っている。ここに写っている玄関はもちろん、家まるごとが津波で流されてしまった。そうした意味でこの玄関の写真は今となっては貴重な記録だ。


撮影日: 2011年1月2日
枚数: 10枚
内容: これが父が撮った最後の写真になる。八雲神社の由来をしるした石碑、長谷川時雨石碑、小川の山神社などの写真に混じって釜石駅前〜新日鉄あたりを見下ろした写真などが残っていた。正月の冷たい空気の中、このあたりを散歩でもしたのかも知れない。父は生前、釜石市図書館のボランティアスタッフとしてつとめていた。退職して、悠々自適の生活に入った後に始めたあの人らしい時間の使い方だった。以前から釜石という街の歴史に深い興味を持ち、図書館で資料にあたったり、釜石市郷土資料館などにも出入りしていたらしい。そんな父の気持ちがそのまま残ったかのような一連の写真だ。


どんなかたちであれ、こうして父の気持ち、父の思いを感じ取れるような写真が遺されたことは感慨深い。

父が撮った最後の写真から1枚拝借。釜石駅、シープラザ、新日鉄、大渡橋、三陸鉄道南リアス線、そして釜石大観音の姿が小さく見えている。